東京

≪撮影前について≫

李相日監督は本格的な役作りのため、徹底的にリハーサルを重ねることで有名だ。 キャストには撮影前の準備にもスケジュールを空けてもらうことを出演の条件としており、入念なホン読みやロケ地見学はもちろん、個々の役柄について台本にも原作にも書かれていないバックグラウンドを深く考えさせる。演じる人物に本物の血肉が通うまで。
クランクイン前の2015年8月5日。東宝スタジオで撮影の安全を祈願してのお祓いが行われた。この場に参加できたのは、主演の渡辺謙と妻夫木聡、広瀬すず、佐久本宝の4名。すでにそれぞれ役に入り込んでいる姿が伺える。この場に来られなかった森山未來は、三週間後の自らの撮影シーンに備え、独りで沖縄入りして無人島生活をしていたという。リハーサル段階から最も追い込まれたのは、沖縄編で泉役を演じる広瀬すずだ。自らこの役を熱望してオーディションを受けた彼女。これまで映画やテレビドラマで主演を務めてきたが、李監督ほど自分の芝居に対して厳しい意見を出した演出家はいなかった。しかし泉という悲痛な事件に直面し、劇的な怒りの感情を動かす難役に全力で向き合うことで、「これを乗り越えたら何かが見つかる」と自身も確信していたそうだ。準備は万端。真夏の東京、沖縄、千葉でいよいよ李組の撮影が始まる。

≪東京編≫クランクイン! 屋上プールでパーティ開始

2015年8月8日、真夏の東京で『怒り』の撮影がスタートした。南青山の9階建てのビルの屋上にある天空レストラン『ラピュタガーデン』にて、150人のエキストラが参加するゲイパーティーのシーンが撮影された。午前中から下準備やリハーサルが行われ、本番が始まる夜にはテンションMAX状態。“GOGOBOYS”のダンサーたちが会場をド派手に盛り上げ、DJブースからは爆音のBGMが流れる。客の男たちが酒をあおり、次々とプールに飛び込んで身体を絡ませ合う過激なシーンだ。この初日から、東京編のメインキャストとなる優馬役の妻夫木聡が参加。ピンク色の海水パンツ姿でカクテルを手に踊り、右腕にはゲイ同士のサインとなる発光リングをつけている。『69 sixty nine』(04)『悪人』(10)に続いて三度目の李組となる妻夫木だが、今回もまた新たな挑戦だ。撮影前からトレーニングで筋肉をつけ、新宿二丁目に通い、クランクインする頃には、その雰囲気の違いに誰もが戸惑うほど男の色気を身に付けてきた。
その妻夫木の恋人役となるのが、直人役の綾野剛だ。二人が出会うシーンの撮影は、都内某ビルにあるクラブを借りて行われた。実はクラインクイン前、ここで妻夫木と綾野は別々の日にマスクで顔を隠し、受付店員の一日体験をしてきたという。李組へは初参加、また妻夫木とも初共演となる綾野は華奢で繊細な直人像に合わせ、別作品のアクションのために付けていた筋肉を落として一ヶ月で9キロの減量をした。撮影では汗だく感を出すため、あえてクーラーを止めるように指示されたサウナ状態の個室の中で、明け方4時半まで妻夫木とのデリケートかつ濃厚な絡みが撮影された。
なんと妻夫木と綾野は、この日から、自主的に実際しばらく一緒に暮らし始めたのだという。オフの時間にも生活空間を共にすることで、芝居の余白を埋めていこうという半端ではないリアリティの追求だ。後日、二人が食事をするシーンが新宿二丁目の『つけめん GACHI』で撮影された。本物の男性カップルが行き交う場所で、妻夫木と綾野のコミュニケーションは、まったく“優馬と直人”として自然なものになっていた。

≪優馬の部屋と母のホスピス≫

李監督はこれまで屋内の撮影は「居抜き」(内装設備が整った本物の部屋・建物)にこだわってきたが、今回は初めて、優馬の部屋だけ東宝スタジオに建て込まれたセットを使用した。設定は恵比寿の築20年のマンション7階の1LDK。若い優馬が相当リッチな独り暮らしを送るエリートのビジネスパーソンであることがわかる。この部屋に直人が転がり込み、二人の同居生活が始まる。
六本木のジビエレストラン『ガブリエラ』や、品川のコンビニなど、優馬と直人の日常空間は都内だが、優馬の母親・貴子が入院しているホスピス病棟は、神奈川県でロケーション。談話室のシーンは川崎市にある井田病院で撮影が行われた。
貴子役は原日出子。『69 sixty nine』以来の李組となり、あの作品でも妻夫木演じる主人公の母親役を演じた。今回、彼女は死に向かう病気という設定のため、なんと10キロの減量を敢行してこの役に臨んだ。「痩せている人をキャスティングすることはできる。しかし原さんでないと意味がない」という李監督のオファーに応え、クラインクインしてから一週間、水中心のダイエット生活を続けて撮影時は極限状態だったという。この迫真の役作りを受け、李監督は談話室から役者とメインスタッフ以外を閉め出し、親子の情愛を捉えるためパーソナルな雰囲気を高めていく。貴子が初対面の直人と話すシーン。そして二人のもとに優馬がやってくるシーン。翌日、貴子の病室のシーンを撮影。母に対する息子としての優馬の気持ちが溢れ出す場面である。見事な泣きの芝居を見せた妻夫木は撮影後も涙が残り、綾野もうっすら涙を浮かべていたようだ。

濃密な時間のまま、沖縄編へバトンを渡す

直人と親しげに話す女・薫を街で見かけ、優馬が話しかけるシーンは、中目黒駅から徒歩2分の距離にあるカフェ『FRAMES』で撮影された。李監督と妻夫木、そして薫役の高畑充希は話し合いを重ね、結局台本の台詞を大幅に変更。手書きの決定稿を出してから本番に入った。通行人で溢れ返る駅前。撮影を終えた時はもう日暮れ間近だった。高畑は二日間のみの参加だったが、これほど集中して緻密に作っていく現場があるのかと驚いたという。
そしていよいよ8月25日、優馬の部屋のセットでオールアップ。妻夫木と綾野は直人が優馬の部屋から姿を消した時点で、自身たちの同居生活も解消していたそうだ。2週間あまりの現場を終え、「すごく濃密な時間でした」と語る妻夫木。彼はこの東京編で李監督のリクエストに最大限応え、続く沖縄編、千葉編につなげていきたいという強い気持ちがあったらしい。その想いの通り、スタッフの士気は最高潮のまま、次の現場へとバトンタッチされていった。